江戸城の天守閣 |
わがふるさと東京千代田は、近世以降現在にいたるまで、政治経済の中心地である。
しかし、千代田区域は、以前は寒村、小城下町でしかなかった。日本における一地方に過ぎな
かったのである。中世でも、まだ小田原とか古河のほうが関東の中心であって、江戸は相変わら
ず一漁村であり、周辺は起伏、湿地が多いという立地条件の悪さから一地方にとどまっていた。
徳川家康の関東移封がなされた近世以降、がらっと事情が一変して、江戸の展開にはめざま
しいものがでてくる。
だが、意外と、自分のふるさとの歴史を正しく知っている人となると、必ずしも多くはないようだ。
歴史をも研究射程に含めるものの一人として、郷土の歴史をまとめることは、私を育んでくれ
た郷土へのささやかな謝意の表明ともなろうか。
駿河台の対岸にある文京区域、つまり元町公園、順天堂医院などは事実上の「我々神田っ子、
江戸っ子」の郷土域でもあり、近世以前は本郷台地としてつながってもいたので、「千代田郷土
史」にこれらも含めている。
なお、江戸っ子は三代とも言われているが、二代、三代などより、要は「江戸っ子の精神」を
体現してるかどうかが重要である。江戸っ子の定義としては、「軽妙な風刺と皮肉な滑稽味」を
もち、「その根底には人生に対する省察と愛情があり、粋と『いき』が極限の形式として尊」(内藤
昌『江戸と江戸城』鹿島出版会、昭和45年、91−2頁)ぶ精神というのがほぼ妥当であろう。換
言すれば、風刺が批判精神となり、肩書きを無粋として排し、粋のよさが能弁(時にベランメー調)
となり、そしてなにより省察力が本質を突く哲学的考察となるという事である。
簡単に言えば、口が悪いが、真理を愛する心は天下一品ということだ。
以下、千代田区、特に猿楽町、駿河台の空間、時間に人物、建物が「縦横前後」に絡み合い、
鮮やかに織り成す絵柄模様を史実に基づいて描出してみよう。これだけの人材が近代という時
期に猿楽町、駿河台という狭い地域に生まれ、居住し、関わった例は他に類を見ないであろう。
|