郷土史

 
千代田郷土史  お茶の水貝塚(東京医科
歯科大学側)

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千代田郷土史

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                           千代田区の縄文時代


お茶の水貝塚関係碑(「帝都
高速度交通営団側)
 千代田区にも縄文時代があり、縄文人が駿河台、湯島や麹町台地を食物採集で歩
きまわり、或いは定住していた。

 このことは、千代田区に、はたまた駿河台、湯島にも自然社会があって、歴史の重み
と言いようのない安堵を与える。

 喧騒と雑踏の街にも、数千年前には、縄文人が食物を求めて遊歩し、あるいは定住
する場所だったと思うだけで、素直に嬉しくなるのである。
 


 前1万1000年から1万年頃、関東平野では落葉ナラを中
心に落葉広葉樹が広がった。

 1万年前、海面は現在より40メートル低くて、東京湾はほ
とんどが陸地であった。

 9000年前、縄文海進で海面は急上昇して、以後3000年
間で30メートル余上昇した。

 この結果、6000年前頃に海面上昇はピークに達して、現
在の海水面より約4m高くなり、「中川低地側では古河まで、
荒川低地側では川越まで海が侵入」し、「有楽町や東京駅
一帯は、波食台」(『新編千代田区史』東京都千代田区、平
成10年、16頁。以下、注記ないものはこれに依拠)になっていた。


 東京、千葉、神奈川など大東京圏には数千の縄文遺跡が
ある。東京湾に突き出た台地などに貝塚がある。


 左図(典拠は縄文時代の江戸)によれば、千代田区には
、江戸城本丸西、お茶の水などに縄文遺跡がある。


 縄文期には、海岸線はこのあたりまで迫っていたようだ。
当時は現在よりもっと海面が高く、お茶の水の高台のすぐ近
くに海があったのである。お茶の水、江戸城本丸から見下ろ
す神田、丸の内、八重洲あたりは海底だったのである。



 この結果、「縄文時代の千代田区について、様相が判明してくるのは、縄文時代の前期になってから」となる。

 竹橋門遺跡 縄文前期の遺跡として、竹橋門遺跡=東京国立近代美術館遺跡(関山式土器)、紀尾井町遺跡(黒浜式土器ー諸磯式土器)がある。土器は発掘されるが、定住如何、集落規模を推定する上で重要な住居跡は不明である。東京国立近代美術館遺跡では晩期の土器が発掘され、「東北地方の大洞C1式の椀形土器を主に、数点検出」されている。東北産か複製か、いずれにしても東北縄文との関連が確認される。大洞は、多摩市、町田市、新宿区などからも発掘され、広域的なネットワークが想定されよう。

 紀尾井町遺跡 縄文中期には、紀尾井町遺跡(打製石斧が多数出土)や平河町遺跡から「散発的な出土」がみられ、「定着的な居住」があったかどうかが今後の課題となっている。紀尾井町周辺で石斧で根茎類(じねんじょなど)を採集していただけなのか、集落をかまえていたのか、これが今後の研究課題なのである。

 江戸城旧本丸貝塚 この貝塚(蓮濠池に面した台地の西斜面)は、昭和23年文部省文化課技官が公務で旧天守台跡を調査しているときに発見された。昭和24年に正式に発掘調査され、土器(前期の諸磯式土器は一点、中期の加曽利E式が中心、後期の称名寺式土器は僅少だが、後期の堀ノ内式土器は多数。これに続く後期の加曽利B式・安行式は僅少)が発掘された。

 ここからは、晩期土器はでていない。築城に際して、破壊されたか、石垣の内部に閉じ込めらたかして、全貌の掌握は困難になっている。

 石錘、骨格製の漁具、採掘されているので、魚(マダイ、クロダイ、スズキ、ウミガメ、イルカ、クジラなど)貝(ハマグリ、アカニシ)の採集が相当おこなわれた。だが、それだけでは食糧確保は不十分であり、楢の実などの採集もあわせておこなわれていたようだ。それは、石皿破片、磨石の存在からも確認される。石斧が発見されないので、このあたりは根茎発掘はおこなわれなかったようだ。

 動物に関しては、漁獲よりは狩猟に依存する度合いが大きかったようだ。漁労は、夏の陸産不足を補完するものとしてなされていたらしい。

 江戸城内部の台地で定住がおこなわれていたかどうかはまだはっきりしていない。『千代田区史』(52頁)は、「旧本丸西貝塚が位置する斜面の上の台地上に、後期の生活の痕跡がうかがわれると期待される」が、「どの程度の集落址があるのか、性格や規模については見当がつかない」としている。だが、旧本丸西貝塚から土偶が一点見つかっているし、木の実採集、動物捕獲、漁労と多面的食糧確保もしているので、定住生活がおこなわれていた可能性は高いといえよう。


 お茶の水縄文貝塚 『千代田区史』は、これが文京区域(文京区湯島1-5)にあるためにドロップしている。だが、お茶の水縄文貝塚は駿河台周辺地域の縄文前期ー後期の貝塚として重要である。

 ここは武蔵野台地の東端の本郷台地である。
1953−53年に地下鉄丸の内線お茶の水駅新設、及び隣接する東京医科歯科大学附属病院等の増築工事の際に、この地域一帯の発掘調査が行われて、7カ所の環状貝塚が発掘されたのである(大坪庄吾『東京の貝塚と古墳を歩く』大月書店、1995年、39頁)。

 坂誥秀一『日本の古代遺跡32 東京23区』(保育社、1987年)によれば、7カ所の貝塚のうち最大のものは丸の内線お茶の水駅のすぐ裏手の「お茶の水貝塚」である。上掲写真の示すとおり、記念碑が設置されている。貝(ハマグリなど)のほか、縄文式土器、獣骨、人骨、石斧、槌石などが出土した。

 2002年文京区湯島一丁目5番28の三楽病院若葉寮(東京医科歯科大学の北西敷地に隣接)の立替工事で新たに縄文貝塚の発掘がおこなわれた。この報告書『お茶の水の貝塚』(東京都埋蔵文化財センター、2002年)によると、縄文時代の住居跡2軒が発掘され、上記の貝塚の集落とは「別の集落」(83頁)と推定している。別集落とは言っても、徒歩10分以内地域だから同一集落圏内とみてよいのではないか。ここに十数人以上の縄文集落があったようだ。

 江戸以前は、神田川はなくて、駿河台とは「地続きで同じ標高」(藤森照信ら『復元 鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行』UC Books、1995年、56頁)であったから、縄文人は両地を行き来していたであろう。

 
 縄文晩期 縄文晩期には、「汀線が沖に移動」するために、「東京湾に面した地域では、遺跡数は減少」してゆく(『千代田区史』52頁)。

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