原田 熊雄 
千田 稔


千代田郷土史
    
原田 熊雄
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  原田 熊雄     

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                                 原田 熊雄

 猿楽町の元原田邸は裏猿楽町6番地に位置し、敷地面積3千坪という猿楽町一の大豪邸であり、現在の明治中高等学校のところにあった。

 この裏側の斜面にはまだ木々が残っている。明治期には椿がこの斜面一面に植えられていた。

 昭和30年頃、小学生の私はこの明治中高等学校のグラウンドでラジオ体操をしたり、自由に入って鉄棒をしたりしたものである。その頃は、約30年前にはここに原田男爵邸があり、原田直次郎がここに関わり、原田熊雄がここで生まれ、木戸幸一、長与善郎、森鴎外、有島生馬、黒田清輝、金子堅太郎、江木千之などがここを訪れていたなどは思いもよらぬことであった。


元原田邸の左端

元原田邸の左端にある椿

この木々は元原田邸のものと推定

元原田邸の中央から左方を見る

原田邸の中央から右方をみる

元原田邸右端奥に残るレンガ塀

元原田邸斜面の右側

男坂の中間から原田邸斜面を撮る

男坂の中間から原田邸斜面を撮る

元原田邸斜面の左側

元原田邸斜面の左側

原田邸の駿河台側

                               一 祖父一道、父豊吉

                               1 原田一道 
 鴨方藩 天保1年(1830年)8月21日、祖父一道は備中国鴨方藩(岡山藩支藩)医原田碩斎の長男として生まれた。日田の広瀬淡窓に学んだ後、嘉永3年(1850年)に江戸に出て、蘭医伊東玄朴に師事した。一道は砲術など洋式兵学を修めて幕府に出仕した。安政3年(1856年)に蕃書調書取調出役教授手伝などに就き、兵学を講じたり、翻訳にも従事した。

 文久3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行池田長発らの遣仏使節団に随行して渡欧し、そのまま欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に入学した。慶応3年(1867年)に帰朝して、故郷の鴨方藩に仕えた後、再び江戸へ出府し、講武所教授・開成所教授に就任した。彼は、勉強家の国際通であった。

 新政府陸軍 維新後は新政府の徴士として出仕し、以後陸軍の兵学の専門家として昇進した。軍務局権判事(明治2年)、兵学校大教授((明治4年。教え子に桂太郎・寺内正毅・黒木為驕E長谷川好道・川村景明・乃木希典ら)、太政官大書記官などを経て、岩倉遣欧使節団(4年11月)に陸軍少将山田顕義理事官の随行員として参加し、フランス、オランダ等欧米各国を巡遊した。

 以後、兵器などの専門家として、砲兵本廠御用掛(11年7月)、陸軍省砲兵局長(明治12年)、陸軍少将(明治14年7月)、国防会議議員(18年)に進み、東京砲兵工廠長・砲兵工廠提理・砲兵会議議長等の陸軍砲術部門の要職を歴任した。

 明治15年、東京砲兵工廠(現在の後楽園・東京ドームの所にあった)に近い裏猿楽町に3千坪(元旗本4,5家分を購入して自邸を構え、敷地内の片隅の離れで地道に兵器研究を行った。この離れは家族から「お爺さんの作業部屋」と呼ばれた。

 彼は立派な人物であり、「凡そ人は如何なる人を問はず、欲望は人をして大ならしむる一の動機となるべきものである。然れども欲望によりて事をなしたる人は人間の中の屑の人間である。決して大事業をなしたるとて真の尊ぶべき人ではない」(「故原田一道閣下の言行」『原田熊雄関係文書』139号文書)とした。まことに見上げた人物である。

 所で、一道はこの購入資金をどのように捻出したのであろうか。この時期の近隣の猿楽町神田カソリック教会隣接地の地価(14年時点で1坪6円50銭ー7円)、紅梅町の地価(14年時点で1坪7円60銭[井上達也の項を参照])で推算すると、購入資金は2万円前後となる。一介の軍人がこの巨費をどのように捻出したのか。貯金もあったろうが、2万円も貯めていたろうか。これを解くカギの一つは、長男の嫁を迎えることになる高田商会との関係であろう。

 高田商会 『原田熊雄関係文書』には「高田商会について」、「高田商会開祖高田慎蔵翁並多美子夫人」という文書が残っている。以下、これによって高田慎蔵を探ってみよう。

 高田慎蔵は佐渡の公事方調役、新政府の鉱山下調役、通弁見習などを経て、英語修行のために上京を決意した。彼は、明治3年3月ガワー(鉱山専門のお雇い外国人)紹介で東京のミカエル・ベアを訪ねると、ベアーが出資者の一人であるドイツ商会「アーレンス商会」に入社を斡旋してくれた。ここで、語学と貿易実務を修得して、11年まで真面目に勤めた。

 11年ベアーがアーレンス商会から出資金を引き上げて、ベア商会を設立したのにともない、慎蔵はベア商会に移った。これは、この間ベアが何かと慎蔵の面倒をみてくれていたからである。当然、慎蔵はベアが荒井ろくとの間に明治元年に生んだ照子をあやしたり、彼女とも親しくなっていたであろう。ベア商会で慎蔵の生活も安定して、この年に多美子と結婚した。12年には勤勉な慎蔵は貯金1万円を蓄えるほでであった(八紘社『大日本人物伝』大正2年)。だが、明治13年頃、ベア商会は、政府が輸入防遏のため直輸政策をうちだしたために、輸入活動が困難になった。ベアは商会を廃業し、娘を慎蔵の養女にして、本国に帰国することを決意した

 そこで、14年2月、高田慎蔵は銀座3丁目に、ベア商会の欧州各国の代理店契約を引き継いで、ジャームズ・スコット(ベア商会の仲間)、アーレンスを誘い、自分は5千円を出資して(『大正人名辞典』東洋新報社、大正7年)、資本金2万円の高田商会を設立したのである。これは各種機械・船舶・車両・兵器等の輸入を目的とする引取商であった。その後、18年にアーレンスは出資金を引き上げ、21年にはスコットは病死して、ここに高田商会は名実ともに慎蔵の単独経営する会社になった。その後、事業は順調に展開して、大正期にかけて急成長して「大正実業界の巨星」などと称された。慎蔵は同郷の大蔵喜八郎とともに新潟出身の大実業家とされ、まさに立志伝中の人物となった。

 14−15年頃に話を戻そう。当時一道の長男豊吉がドイツ留学中であり、慎蔵養女照子がドイツ人ハーフともなれば、やがて二人の間で持参金付婚姻にまで話が進んだとしてもおかしくない。こう考えると、一道が2万円もの大金を出して広大な邸宅地を購入し得た理由が判然とする。高田商会にとっては先行投資である。

 ただ、当時高田慎蔵は、高田商会に出資しており、はたして土地購入資金を持参金としてつける余裕があったかどうかという問題がある。高田商会が出すのであれば、充分可能であったろう。初期政商の実態は一般に資料的制約で解明困難であるが、この高田商会と原田一道との関係は今後の一課題であろう。一道自らが土地購入代金を出資していれば、何も問題はないのだが、以後の動きをも見るとき、一道単独出資は考えにくいのである。つまり、こうした事情のゆえに、後述の通り、純和風にしたかった一道(ただしフランス兵学など外国通であったから、そうとも限らないが)と洋風を望んだ高田照子側との妥協として「奇妙な半洋風」建築になったり、別に駿河台鈴木町には純洋風建築を造ったリ、関東大震災後に高田商会が窮地に陥った時に原田邸地を売却したのであろうと思われるのである。

 予備役 予備役編入(21年12月)後、一道は元老院議官(明治19年2月任命)を続け、23年には新たに貴族院議員になった。

 以後も、兵器の専門家として、陸軍には隠然たる影響力をもっていたであろう。33年5月には兵器・軍律刑法研究の功で男爵を授爵した。

 43年8月、一道は病気に罹り、国府津の別荘に移って静養することにした。だが、12月療養の甲斐なく一道は肺炎のため死去した(明治43年12月10日付読売新聞)。


                            2 原田豊吉 
 
万延元年(1860年)、原田豊吉は江戸に生まれた。弟に洋画家の直次郎がいる。

 ドイツ留学 一道は、豊吉には少年期から洋学を身につけさせようとして、明治7年に14歳の豊吉をドイツに留学させた。豊吉は、7−10年ギムナジウム、10−13年フライベルグ鉱山学校、13年にハイデルベルグ大学(鉱山学)、14年にミュンヘン大学(生物学)に学んだ。

 豊吉は、訪独してきた西園寺公望をもてなしたりして、彼とは懇意になった。豊吉は、在独10年が過ぎた17年に帰国した(堀越叡智「ドイツの原田豊吉についての新資料」[『地質ニュース』1972年11月])。

 結婚 帰国後、豊吉は、親の決めた通り、ドイツ人商人ミカエル・ベアを父にもつハーフの照子(明治元年生まれ)と結婚した。ミカエル帰国後、照子は高田慎蔵の養女となり、豊吉に嫁ぐ準備をしていたようだ。照子はなかなかの美人であり、公望ですら、照子に会って、「綺麗な方」と思っている(原田熊雄編『陶庵公清話』岩波書店、昭和18年、156頁)。照子の実家高田商会は明治三大貿易商といわれてゆくから、実家の財力で照子の希望で猿楽町邸とは別に駿河台鈴木町に洋館を建てたのであろう。

 ナウマンとの論争 18年に、豊吉は鉱山学で修得した地質知識を買われて地質調査所に入所した。この年ナウマンが帰国すると、19年僅か23歳で東京帝国大学地質学の最初の日本人教授になった。明治21年に北海道地図をまとめて、ライマン(明治15年に『日本地質構造論』発表)が北海道で多産するアンモナイトを記述しなかったことを批判したが、ナウマン(明治8年来日)の命名したフォッサマグナを否定する誤りをおかした。豊吉は、明治23年には「日本群島」『地質学雑誌』2巻22号、100万分の1の日本列島地質図(地体構造図)、24年には『日本地質構造論』を刊行し、ナウマンを批判し続けた。

 ナウマンは、東北日本と西南日本はもともと一体の島弧と考え、「七島弧(伊豆−小笠原弧)」との衝突部分が裂けて、フォッサマグナ地域が陥没するとともに、赤石山脈と関東山地の「ハ」の字屈曲が生じたと考えた。それに対して原田は、「南弧(西南日本弧)」と「北弧(東北日本弧)」とは、もともとは別の島弧で、両者が衝突したために、南弧東端の赤石山脈と、北弧西端の関東山地が押し合って曲がり、「ハ」の字屈曲が生じたと考えた。豊吉は陥没したことに思い至らなかった。これは「ナウマン・原田論争」として有名である。結局、これはナウマンが正しかったが、豊吉見解には日本の地震の原因を「地滑り」=断層とするとしたり、「鹿塩片麻岩」を命名するなど、日本最初の地質学論文としては、傾聴すべき所もあった(小出仁「夭逝した先駆者」『地学雑誌』2007年第116巻2号、参照)。

 21年(1888年)1月に熊雄、翌年11月に信子が裏猿楽町で生まれた。実父ベアに因み、かつ丈夫な子になったほしいという願いをこめて、長男には熊雄と命名したのであろう。だが、彼らがまだ幼い時に、27年に父の東京帝大教授豊吉はわずか33歳の若さで肺結核で死去した。


                             二 原田熊雄

                             1 修学と就職

 東京高師・学習院時代 前年の32年12月には直次郎も死去していたから、豊吉、直次郎兄弟はともに早世したことになる。祖父一道は、後見人として知己であった西園寺公望に自ら熊雄後見役を頼み込んでいた。

 母照子は一人息子の教育に真剣に取り組んだ。学習院ではなく、歩いて通えるお茶の水の東京高等師範附属中学に入れた。熊雄は内気な子だったので、柔道をやらせたりした。家庭教師もつけて、勉強もおろそかにしなかった。典型的な教育ママであり、厳しくしつけたようだ。怒ることもしばしばあったらしく、熊雄は、母に「腹立てる子」(原田照子)とあだ名をつけていた。

 母照子は金子堅太郎、江木千之(明治3年一道が大坂で開いた塾の生徒。県知事、貴族院議員、文相)など顕官を夕食に招待して、熊雄に顕官と話すことに慣れさせた。伊藤博文、西園寺公望などとも大磯で出会うと、母は熊雄に紹介した。 西園寺公望の場合、明治38年夏、別荘のある大磯で公望とすれ違って、母は公望に17歳の熊雄を紹介したということになっている。だが、祖父が公望に後見役を依頼する時、まだ少年の熊雄を駿河台の公望邸に連れて行ったろうから、熊雄は大磯で紹介した時は公望とは初対面ではなかったはずだ。

 照子は森鴎外も猿楽町邸に招待した。鴎外は、ドイツ医学を学んだ軍医であり、ドイツ語にも堪能であったこともあるが、何よりも豊吉弟の画家直次郎と懇意であったからである。ケーベルも一緒に招待して、鴎外にケーベルのピアノ演奏を聞かせたりした(『重臣たちの昭和史』上、22頁)。猿楽町原田邸は、ちょっとした異国的雰囲気を帯びた社交場であった。

 40年3月熊雄は柔道の怪我で1年留年したため、母はおそらく第一高等学校受験が無理と判断して、熊雄を東京高等師範附属中学から学習院中等科6年に編入させた。ここで熊雄は終生の親友となる木戸幸一や長与善郎などと知り合った。母が助言したのであろう、熊雄は、幸一、善郎らを自宅にしばしば招いた。母は彼らに夕食をご馳走し、信子にピアノを演奏させたりした。善郎もまた、熊雄の家庭の「親しみのある居心地のよさと一種異国的香気のある雰囲気の魅力」にすっかり魅せられた。

 熊雄の幼友達の長尾善郎が、この猿楽町の邸宅を巧みに描写している。この日は善郎は駿河台から来たようで、崖上の戸口から入って、斜面に植えられた椿の間をぬうように降りていった。これが関東大震災後に整備されて、男坂になったと思われる。

 原田邸は「一風変わった類のない半洋館」であった。一階は、「玄関のドアをあけるといきなりSの字形の階段」があり、「台所と物置き、土蔵とでもなっていた」。二階は、居間兼客間の「広い洋間」と畳敷きの広い日本間があった。洋間には、叔父直次郎の洋画が2、3枚かかっていた。ピアノも置かれていて、そのピアノで妹の信子がケーベル指導を受けていて、「本場ものといった感じ」の弾き方をした。ケーベルは、「原田の貸家」にすんでいたので、その関係で信子にピアノを教えていたのである(長与善郎『わが心の遍歴』筑摩書房、昭和38年、68頁)。この信子はとても華のある美人であって、善郎らには「あげはの蝶」と言われていた。犬養道子によると、善郎は美しい信子への「片恋に悩んだ」(『ある歴史の娘』中公文庫、1995年、191頁)ようだ。

 41年熊雄は学習院高等科に無試験で進級した。熊雄は学業成績はあまりよくなかったが、以後高等科で所定の学科を終了し、卒業さえすればすれば、帝国大学に無試験で入学するチャンスが与えられていた。

 42年、熊雄は、直次郎没後10年を記念して遺作展を開こうと計画して、鴎外を訪問して色々と相談した。母の照子は熊雄が記念会開催に打ち込むのをみて、彼の学業成績が心配になった。照子は鴎外に、「熊雄に勉学に専念させたいので、自分が代わりをする」と申し出た。結局、母ではなく、親戚の原田官平が代表になって、この問題は決着した。遺作展開催が軌道にのると、照子は猿楽町に鴎外、黒田清輝ら関係者一同を晩餐会に招待し、遺作展開催実現への労をねぎらった。同年11月東京美術学校で原田直次郎遺作展が催された。公望も出席して、熊雄にねぎらいの言葉をかけた。

 43年、熊雄が高等科3年の時、妹の信子が洋画家有島生馬と結婚した。生馬が直次郎の絵画の件で猿楽町原田邸を訪ねた際、信子の美しさに惚れて、交際していたのだった。信子結婚から1カ月後に、祖父一道が肺炎でなくなった。23歳の熊雄は男爵を継いだ。

 京大時代 44年7月、熊雄は公望の助言などで木戸幸一とともに京都帝大に入学し、二年生の時に後輩一年生近衛文麿らと交友関係をもった。文麿、熊雄、幸一は元学習院高等科教授だった西田幾多郎を囲んで『善の研究』を読んだり、嵐山に遊んだりした。熊雄は、彼らに「熊」、「熊公」と呼ばれていた。文麿は公爵、幸一は侯爵と上層華族だが、熊雄は男爵と下層華族であり、爵位では熊公は二人の足もとにもおよばないのである。

 大正2年、公望が陸軍の二個師団増設問題で首相を辞任して、京都の清風荘に隠棲した。熊雄は時折清風荘を訪問し、やがて文麿も公望に会いたくなって一人で訪問したりした。侯爵公望は家格・爵位では上の公爵文麿に「閣下」と呼びかけた。公望には、「平民」(一応男爵だが)の熊雄と、門閥公家の近衛とでは雲泥の差があったのだろう。それでも、熊雄は、「老公が、老公が」と口にして、公望を尊敬してゆくのであった(木戸幸一「序」[『重臣たちの昭和史』])。のちに宮廷派京大トリオ、「宮中革新派」と呼ばれる華族の政治的グループ(十一会)が形成されるが、この時期の交遊が後の彼の政治的基盤を形作ることとなった。

 
 日銀時代 大正4年2月無事京大を卒業した。その間際、熊雄は宮内省への仕官を望んだが、西園寺公望や三島弥太郎らの口添えがあったにもかかわらず、宮内省の次官川村金五郎を相手に宮内省改革論のタンカをきって落とされた。公望に語った宮内省改革論によると、熊雄は「あんな世の中を知らない連中ばかりでやっていたのでは、結局みずからの存在意義を失わせる・・・。あまりに陛下を神格化し過ぎているのもけしからん」(『重臣たちの昭和史』46頁)と考えていた。京大の自由な学風の影響もさることながら、熊雄には本質を看破する江戸っ子の血が流れていた。

 大正4年12月、熊雄は、母の跡見女学校の同級生の娘(旧岩国藩主吉川重吉の娘)英子と結婚した。結婚後2日目に重吉が死去したので、以後熊雄は英子の妹の面倒をよく見て、春子を木戸幸一の実弟小六に紹介した。熊雄は、妻英子を通じて、公望、幸一とは縁戚となった。公望は「妻の祖母の実兄」となり、木戸幸一は「妻の姉の夫の兄」となったのである。

徳大寺公純ー|ー実則                      ーーー長女英子・・・原田熊雄と結婚
         | 公望                     |
         |ー福子(山内豊資養女)           −−−次女春子・・・・和田小六(木戸幸一の弟)と結婚
             |ーーーーーーーー須賀子      |
           加藤泰秋           |ーーーーーーーー三女壽子・・・・本多猶一郎(元膳所、子爵)と結婚
                          吉川重吉    |
                                    −−−四女幸子ー・・松方勝彦(公爵松方家の幸次郎4
                                                 男)と結婚。後に獅子文六と再婚

 
 母が当時の日銀総裁三島に強く頼み込み、大正5(1916)年9月、三島の周旋で日本銀行に入行した。同年11月、熊雄と英子の間に長女美智子が生まれた。後に、彼女は勝田主計の息子龍夫に嫁いだ。後に、その龍夫は岳父原田龍男を主人公とする『重臣たちの昭和史』を刊行した。
 
 熊雄が日銀大阪支店に勤務していた時、算盤勘定の苦手な熊雄の仕事がなかなか終わらないため、終わるまで行員全員が帰宅できなかった。次第に熊雄は自分は銀行員には不向きであることを痛感しはじめた。

 大正8年、公望がパリ講和会議に首席全権として出席することになると、熊雄は随行を願い出た。だが、文麿も随行を希望する旨を熊雄に相談してきたので、熊雄は文麿に随員を譲った。この事を恩に来て、後に文麿は公望と熊雄の身の振り方(宮内省事務嘱託にして洋行、ついで公望秘書に任用)を決めることになった。
 
 
 ここは元原田邸ではないが、元原田邸の斜面に続く斜面の右端、明治大学校舎に生き残っていた唯一の椿である。左写真の中に、赤く咲いた椿の花が認められる。

 椿の寿命は500年というから、右写真に写っている幹、枝の太さや木の高さから、これは照子の生きてた頃の椿ではないかと思われる。

 9年母照子がスペイン風邪で猿楽町の自宅で逝去した。夫は亡くなり、娘は生馬に嫁ぎ、熊雄は平河町に住み、その結果、照子は女中とともに猿楽町の家にひとりしっそりと椿に囲まれて生活していた。彼女を追憶する会が「椿会」と称された所以である。

 11年1月熊雄は日銀を退職し、5月公望の勧めで宮内省嘱託になって社会事業視察のために訪欧した。渡欧費用は宮内省から出たが、一部自分でも負担して余裕をもたせようとして、猿楽町邸3千坪を40万円で売却した。売却先は明治大学であり、駿河台の明治大学構内にあった明治中学校(45年4月設立)の用地にあてられた。なお、2008年にこの明治中高等学校は調布に移転し、跡地は再開発されることになっている。単調な商業ビルが建つのであろう。

 亡母の実家の高田商会が戦後恐慌・震災恐慌で震災手形751万円を負って経営逼迫していたので、熊雄は金策を頼まれたのではなかろうか。うすうす邸宅購入資金の出所に気付いていたろうから、龍男は残金をすべて高田商会に「預け」たのであろう。その商会も14年に休業して、預けた資金は戻ってこなかった。なお、この高田商会は再建されて、今でも神田鍛冶町に現存している。

 12年12月に帰国した後、東亜同文書院幹事に就任することを勧誘された。熊雄は、これを文麿に相談すると、文麿は熊雄の今後のことを既に公望と決めていたものと見えて「激越の口吻」でこれに反対した。それで、熊雄はすぐにこれを断った。熊雄は、公望、文麿の後押しで13年6月憲政会総裁加藤高明の秘書官に就任した。これは、元老西園寺公望秘書になるための「修行」であった。14年7月閣内不一致で加藤内閣が総辞職すると、井上準之助が熊雄を東邦電力に世話しようとした。熊雄は、早速これを公望に相談すると、言下に反対された。

 公望秘書官就任にこういう準備が必要だったのは、気の短い、そそっかしいともとれる熊雄の江戸っ子かたぎが公望には不安だったからであろう。里見ク(熊雄の妹信子の夫有島生馬の実弟)も熊雄の「そそっかしさ」は生来のものとみていたように、それが一時は公望をして、「彼は馬鹿だから秘密は話せぬぜ」と言わせたりしたのであった。公望はそういう「下々の平民」に秘書がつとまるかどうか不安だったのである。



                          2 西園寺公望の秘書
 それでも、熊雄が首相秘書官の実績を積んできたことが評価され、15年5月11日、29日、公望の駿河台邸で熊雄をひとまず住友に預けることが決まった。大正15年7月、熊雄は湯川寛吉総領事の住友合資会社に入社し、事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月にやっと元老西園寺公望の私設秘書となった。公望の実弟(14年に亡くなってはいたが)が当主をつとめた住友財閥が公望に「政治向き御用」を承る秘書をあてがったようなものである。

 昭和3ー6年 熊雄の仕事は、東京政官界(政党幹部、高級官僚、軍部穏健派、宮中、特に木戸内大臣や近衛文麿)と元老西園寺公望の本邸(東京駿河台本邸)・別宅(静岡県興津坐漁荘、御殿場別邸、京都清風荘)の間を行き来して、公望に政界情報を伝え、また、公望意向を政界要路に伝えることであった。

 当初の熊雄の活動状況を『読売新聞』から見てみよう。ここでは熊雄は「園公秘書役(時に秘書官)原田熊雄男」というのが一般的に用いられた表現であり、記事源は「興津電話」が最も多くて、ついで「静岡電話」、「清水電話」である。

 3年2月24日午後5時官邸に田中義一首相を訪問、「総理の総選挙の結果についての伝言を園公に伝えたる顛末、及更に園公よりの伝言」を報告、午後5時半辞去(30分間)、
 3年3月22日午前9時半水口屋から興津園公訪問、「牧野内府から依頼された御大礼の件に関して園公の意見を聴取」、午前11時半退邸(2時間)、午後0時1分江尻発鎌倉行き
 3年5月1日田中首相が熊雄を青山私邸に招致、「内閣改造の方針決定」を「園公に報告せられたし」と要請。1日午後7時25分東京駅出発。2日興津園公に報告、午後帰京。首相に園公意向伝達。
 3年6月27日午前9時半興津園公訪問。「治安維持法改正緊急勅令問題に関する枢密院並に諸方面の情勢」報告。午前11時半退邸、午後零時一分江尻発で帰京(2時間)
 3年8月11日午後3時半外務省次官吉田、森訪問、「東三省問題の事情を聴取」。12日午前8時御殿場に園公訪問。
 
 4年2月11日午前9時半水口屋から興津園公訪問、「民政党の内閣不信任案提出事情及び貴衆両院の政情」を報告。11時退邸、午後零時一分江尻発で帰京(1時間半)。
 4年11月30日午前9時35分水口屋から興津園公訪問、「小橋前文相辞任事情並びに後任文相として田中隆三氏起用の顛末」、「疑獄事件に関する政界方面の情勢」を報告、11時退邸、午後1時5分江尻発で帰京(1時間半)。

 5年2月23日午前9時半水口屋から興津園公訪問、「総選挙の結果」を報告、午後1時25分退邸、5時54分江尻発で帰京(4時間)。
 5年6月4日午後2時半興津園公訪問、「統帥権問題、対支問題、その他の時局問題で各方面の情報を報告」。
 5年10月17日午前9時興津園公訪問、「時局問題につき報告」、11時退邸、11時10分興津発で帰京(2時間)。
 5年10月24日午前9時浜口首相官邸訪問、「種々要談」。
 5年11月6日午前10時半井上準之助蔵相訪問、「来年度予算編成につき・・詳細聴取」、興津園公に報告。
 5年12月13日午前9時興津園公方訪問、「浜口首相の経過、臨時総裁問題を中心としての民政党の内紛、その他議会開会を前にし各方面の情勢を詳細報告」、10時退邸、11時3分興津発で帰京(1時間)。、

 昭和5年10月に木戸幸一が、牧野伸顕内大臣秘書官長に任命され、6年1月に近衛文麿が貴族院福議長に就任した頃から、幸一、文麿、熊雄三人の交流が今度は政治的レベルで復活した。昭和6年正月、熊雄は貴族院議員(互選・男爵議員)に当選したが、これは当初からの公望の意向であった。

 5年末には、熊雄は公望に5日おきに報告するようになっていた。熊雄や幸一が集めた情報をもとに公望は後掲首班を推奏していった。

 次に、6年の熊雄動向を考察してみよう。

 6年2月6日午前9時半興津園公訪問、「幣原首相代理の失言問題顛末、その他議会の情勢を報告」、11時10分退邸、午後零時3分静岡発で帰京。
 6年3月11日3月事件勃発以後の切迫した政局では、「午前零時といふ深夜に秘書の原田熊雄男が老公の夢をおどろかした前後から、夜を日についで東京と興津の間を頻繁に往復し、中央政界の雲行急なるを思はせるのみ」
 6年12月6日午前10時若槻礼次郎首相官邸を訪問、「予算編成の状態、並びに時局に対する首相の意見等を聴取」、1時間で辞去。午後興津園公訪問。

 
 昭和7−13年 当初、熊雄をまだまだ軽く見ていた公望であったが、熊雄が昔から公望に私淑していたことや、その献身ぶり、無欲さ、政治的勘の鋭さを見て、しだいに評価を変えていった。

 昭和6年12月第二次若槻内閣総辞職の際、公望は初めて熊雄に「どう思うか」と意見を求めた。『西園寺公と政局』(157−8頁)によると、この時原田は「びっくり」して「慌てて」答えた。熊雄は「公望に信頼され始めた」と思って、うれしかったのである。

 8年1月7日、熊雄、文麿、幸一が初めて三人揃って、公望のいる坐漁荘を訪問した。公望が5・15事件など軍部台頭の動きに嫌気が差して元老辞任を考慮していたので、三人は公望の元老辞任意向を撤回させようとしたのだった。公望は彼らに支えられて留任した。だが、8年6月文麿が貴族院議長に就任した頃から、文麿ひとりが軍部、右翼に妥協的になって、公望の不興を買い始めた。京大トリオの一角が崩れ始めた。9年、公望は文麿に期待していたが、文麿は政党、議会を批判し始め、公望を議会主義の牙城と言い出した。三人の交流は続いたが、明らかに文麿は変化していた。

 12年、熊雄は、公望への伝達活動の一拠点と静養場所をかねて、政財界人の別荘の多い大磯高麗町の土地を徳川頼貞より購入して、洋館をたてた。

 昭和13年以後
 昭和12年の近衛文麿の首班推薦を最後に、公望は老齢を理由として首相推薦を辞退し、以後後継首相人事は内大臣を中心とした重臣会議に切り換えられた。こうして公望の元老としての立場は弱まりはしたが、熊雄の活動は少しも変わらなかった。熊雄は、下記の通り公望に今まで通り忠実に政局情報を伝えた。

 13年1月5日午前9時55分興津園公訪問、「念頭の挨拶」、「政情を報告」、11時退邸(1時間)。
 13年1月18日午前9時57分興津園公訪問、「帝国の対支重大声明を始め、支那事変を中心とする外交情勢および厚生省設置、木戸厚相の就任等を報告」、11時退邸、帰京。
 13日12月30日大磯水口屋で熊雄は内大臣秘書官長松平康昌と「一般政情」で会見、
 13年12月31日午前10時興津園公訪問、「松平侯の報告」伝達、11時辞去(1時間)。

 14年1月6日午後10時興津園公訪問、「(公望の嫌っていた)平沼内閣成立の経緯を報告」
 14年1月23日午前9時55分興津園公訪問、「近衛無任所大臣問題はじめ議会の情勢を報告」、11時10分退邸(1時間15分)。
 14年2月13日午前10時興津園公訪問、「議会情勢、新党結成、その他一般政情につき報告」、11時10分退邸。
 14年2月27日午前10時園公訪問、「議会の経過、一般の情勢を報告」
 14年4月21日午前10時20分園公訪問、欧州情勢、国内一般情勢を報告、11時20分退邸(1時間)。
 14年5月14日午前10時園公訪問、欧州政情、政友会総裁問題、その他時局問題を報告、11時退邸(1時間)。
 14年6月26日午前10時園公訪問、「天津英租界隔絶問題に対する帝国不動の方針その他内外政情を報告」、11時退邸(1時間)。
 14年8月7日正午御殿場船塚別荘の園公訪問、「日英会談の経過、対欧問題、その他の諸問題」を報告(1時間半)。
 14年9月12日午前8時20分西大久保の阿部首相私邸を訪問、要談、8時40分辞去(20分)。

 公望の老衰も進み、14年11月には沼津御用邸に滞在中の天皇への天機奉司ができなくなった。代わりに、熊雄が赴いたが、彼が天皇に会うのはこれが初めてだった。公望は見るからに老い衰えてきたのだが、熊雄も14年頃から肥満が心臓に負担を与えて、健康が悪化していた。10月4日から養生がてら興津水口屋「松の離れ」に静養していたのである(勝田主計『重臣たちの昭和史』下、128頁))。公望の老衰もすすんだが、熊雄の健康も悪化していたのである。それでも熊雄は次のように昭和15年も公望に政治情報を忠実に伝えていた。

 なお、14年5月26日、伯爵児玉秀雄の媒酌で熊雄の長女美智子が貴族院議員勝田主計(元文相、蔵相)の次男龍夫(朝鮮銀行員)と東京會舘で結婚式をあげている。この龍夫が戦後『重臣たちの昭和史』を』刊行することになる。


 15年1月11日午前宮中訪問、湯浅内府と会見。夜荻窪の近衛枢相私邸訪問、「政局の動向について長時間にわたり会談」 15年1月12日午後興津園公訪問、「阿部首相が政局転回の具体化を表面化した場合における西園寺公の応答資料たらしめる」ために「中間的報告をなし」た。
 15年1月13日午前10時興津園公、「政局転回に対する阿部首相の決意、近衛枢相、湯浅内府の重臣方面の方向」を報告。11時辞去(1時間)
 15年1月25日午後興津園公見舞い。熊雄、興津駅に木戸を迎える。
 15年4月5日午前9時25分米内首相訪問、要談。
 15年6月23日午前9時荻窪近衛私邸訪問、「新党問題、枢府議長辞任とその後任問題に関して近衛の意向を聴取」、午後3時50分興津訪問、園公に報告(2時間)、
 15年6月24日午前10時25分、興津園公訪問、「新党問題に対する近衛枢相との会見、近衛公辞任に伴う後任問題につき報告」。
 15年7月17日午前10時20分、興津園公訪問、「各方面の情勢」報告。木戸内府は松平内大臣秘書官長に園公に「宮中における重臣会議の結果」を報告させた。
 15年7月18日午前10時半、興津園公訪問、「近衛公の組閣経過を報告」。
 15年9月20日午後4時近衛首相訪問、「当面の内外諸問題につき懇談」、5時15分辞去。
 15年9月23日午後4時近衛首相訪問、「最近の世界情勢、並びに新体制問題につき種々意見を交換」。



西園寺公望

木戸幸一

近衛文麿と熊雄(15年公望見舞に興津来訪)



 評価 熊雄のせっかちはいささかもなおらなかった。むしろ、そのおもむくままに情報をとっていた感すらあった。アポイントメントなしで突然来訪したり、ゴルフプレーまでが性急すぎた。時間に遠慮のない電話魔などともいわれ、当時の新聞記事のイラストでは、電話機を小脇に抱えて疾走している姿が描かれた。幸一の家に来ても、「まず電話室に飛び込む有様」(木戸幸一「序」[『重臣たちの昭和史』])であった。

 相変わらず口が悪くて、「やましい」事などに対しては衆人の面前でも「平気で悪口を言」(池田成彬『故人今人』世界の日本社、昭和24年、22頁)っていた。だが、熊雄の口の悪さは人柄の悪さではなかった。例えば、犬養家では熊雄の人柄、つまり「早く猛烈に来るがすぐ消えて女々しい尾を曳かぬ雷の本性」が分かっていたから、口の悪い熊雄を「だれも・・悪く言わなかった」(前掲『ある歴史の娘』140』頁)のである。そして、使用人には「庶民的で気さく」(女中小関文枝談[『重臣たちの昭和史』72頁])であった。こうした率直で庶民的で気さくな態度は、まさに江戸っ子気質があらわれていたというべきであろう。

 しかし、長与善郎に言わせれば、熊雄は「学問的知能は殆どゼロ」だったが、「永久不変の道」などに関する勘はよくて、西園寺公望や西田幾多郎などの「世界的視野に立っての高見」には忠実であったと評価している(『わが心の遍歴』280頁)。これは、いい得て妙である。

 この「世界的視野にたった高見」とはどいうことか。それは、具体的には、小泉信三が言うように、熊雄が「立憲政治の正道を踏み、そのためには何物をも怖れぬ」(『私の愛する人々』角川書店、昭和43年、150頁)ということである。熊雄は、公望、幸一とともに親英米派であって、彼らは軍部や右翼に命を狙われていたのであった。昭和11年の二・二六事では青年将校らは豊橋陸軍教導学校の下士官・兵に公望襲撃を命じ、同時に熊雄の殺害も命じていた。結局公望、熊雄は命拾いしたが、その後も特に熊雄は陸軍・右翼からは「原熊」・「情報ブローカー」などと呼ばれて命を狙われることになった。それでも、熊雄は自由主義的で立憲的態度を曲げることは一切なかったのである。反軍国主義。自由主義という点では、熊雄はいささかもブレル事はなかったのである。

 熊雄は明らかに「政治家」として成長してきたのである。だが、ただの「政治家」ではなかった。熊雄は、元老と重臣の間を往復し、木戸、近衛とは親友であったから、自らも重臣化する道もありえたろうが、熊雄は一切それを避け、黒子に徹していた。昭和15年1月25日、木戸を興津に迎えた原田熊雄に、読売新聞記者が、「興津会談でもはじまりますか」と問いかけると、「何を言うか、僕などは主流の人物ではない!」と真面目に言い返したものである。彼は政治的野望など一切もたず、終始脇役に徹していたのである。こういう潔さもまた江戸っ子特有のものであった。熊雄は、「公望の蓄音機」といわれるほどに「元老秘書という職人」に徹したのであった。熊雄は、こういう意味での世界的視野をもつ職人政治家となったのである。



                               3 西園寺死後
 公望死去 昭和15年11月、西園寺公望は死去し、12月5日国葬になった。首相近衛文麿がこの国葬の葬儀委員長になった。葬儀では、熊雄は外相官邸から棺を霊柩車に運び、式場の日比谷公園では親族席にすわって、弔問客に挨拶した(昭和15年12月6日付読売新聞)。喪主西園寺八郎は、熊雄を親族に遇して彼の忠勤に報いたのであった。

 以後、新聞は一切原田熊雄男爵を報道しなくなった。元老西園寺の秘書だったからこそ報道してきたのであり、その元老西園寺が逝去したとなっては、もはや原田熊雄の報道価値はなくなったのである。だが。熊雄は黙って引退したわけではない。

 熊雄の動静 確かに、熊雄は公望を失って一時生きがいを失って、体調を乱し、軽井沢で静養した。だが、16年9月3日、近衛首相から電話があって、日米会談への東久邇宮の協力を仲介してほしいと頼んできた頃から、熊雄の政治行動が見られ始めた。熊雄は上京して、近衛と東久邇宮との会談をお膳立てした。近衛は日米開戦準備をする一方で、日米首脳会談で局面打開を画策していた。天皇は、「なるべく平和的に外交でやれ。外交と戦争準備は平行せしめずに外交を先行せしめよ」(勝田『重臣たちの昭和史』上、286頁)と、平和外交優先を指示した。

 9月から熊雄は大磯に一時引っ込んでいたが、日米首脳会談の成り行きを心配して、近衛、木戸らに電話していた。熊雄は軍部独走をなんとか抑制しようと、上京して近衛を激励したりした。だが、10月16日近衛は首相を辞任して、18日東条英機が組閣してしまった。熊雄は大磯から近衛に電話して、「これは必ず戦争になる」といって、泣き出した(勝田『重臣たちの昭和史』上、299頁)。

 熊雄は、日本軍が破竹の快進撃を続けていた17年の正月14日、東京の上野精養軒で母照子の命日の椿会を23回忌として開いた。近衛、木戸、長与、織田、有島、里見らの家族が出席した(勝田『重臣たちの昭和史』上、317頁)。2月5日、熊雄は娘婿の龍夫を通して木戸に早期和平を説いた。6月、熊雄は公望の遺墨を複製して、これを親しい人に配った。

 17年8月、熊雄は軽井沢から上野にでて、村山医師付き添いで大磯に向う途中、脳血栓で倒れた。そのまま大磯で療養していたが、、18年10月には療養を兼ねて湯河原の天野屋に滞在した。11月大磯に戻る頃には、熊雄は見違えるように元気になっていた(勝田『重臣たちの昭和史』上、337頁)。それは、この頃から、熊雄が東条倒閣工作に関わっていったからである。。熊雄は軍部が擁立する東条英機内閣の打倒を目標に、近衛文麿や元駐英大使吉田茂、枢密顧問官樺山愛輔など親英米派(重臣グループ)と共謀し、倒閣・終戦工作を秘密裏に計画した。

 19年7月東条内閣は総辞職した。熊雄は、軽井沢、湯河原などを舞台に、吉田、池田成彬、野村吉三郎などと小磯内閣後の相談などをしていた。20年1月、吉田は熊雄を訪ねて、天皇に早期和平の上奏を行う機会を作る工作で相談した(勝田『重臣たちの昭和史』上、356頁)。2月14日、近衛は天皇に「国体護持の立場よりすれば、一日も早く速やかに戦争終結の方途を講ずべき」と上奏した。熊雄は、近衛、木戸らと戦争終結のための国内態勢などを検討し始めた。熊雄と近衛は終戦処理内閣を検討し始め、近衛が最適だが、近衛が不同意なら、鈴木貫太郎がいいと考え始めた。

 4月7日鈴木内閣が組閣されたが、4月15日大磯の吉田邸に東京憲兵隊の准尉らが踏み込み、近衛上奏文の流布、和平工作の嫌疑で吉田を検挙した。1時間後には、憲兵は熊雄邸にもやってきた。しかし、事前に吉田邸から連絡を受けていたので、熊雄は「重病人を装って布団にもぐりこん」だ。憲兵隊は熊雄検挙の予定は無く、やがて引き上げた(勝田『重臣たちの昭和史』上、374−5頁)。釈放後、吉田はしばしば熊雄を訪ねて、熊雄と接触した。5月に吉田の麹町邸が焼失すると、熊雄は衣服、食料をおしげもなく吉田に与えた。

 熊雄死去 20年8月、熊雄は、終戦の玉音放送を大磯で聞いた。9月吉田茂が外相に就任すると、熊雄は大磯の自宅で就任祝いを開いてやった。熊雄は吉田にモーニングから鞄まで一式用意してやった。

 だが、12月6日近衛に逮捕令がでると、16日文麿が自殺した。これ以後、熊雄はすっかり憔悴して、病状をますます悪化させていった。21年2月に熊雄は療養先である大磯町高麗の別邸で帰らぬ人となった。読売新聞は、「死亡欄」で、原田熊雄は「昨年来心筋・・症で大磯の自宅で療養中であったが、26日午前6時30分死亡」と簡単に報じただけであった。



                         4 「原田日記」と極東国際軍事裁判

                              a 「原田日記」 
 熊雄は、昭和5年3月6日から15年11月21日公望死去まで公望秘書を勤め、「公望をめぐる政局裏面」を近衛秀麿夫人泰子に口述筆記させ、里見クに校正整理させていた。これは周知の事実である。

 執筆事情 では、なぜ熊雄はこのようなものを書き残したのであろうか。熊雄によると、彼は、「ただ漠然と元老秘書として時勢を見通していることを遺憾と思っ」て、「何んとかして老公の周囲の現状を後世に残したいものと近衛文麿公にはかった」ところ、近衛も賛成して、弟の妻近衛泰子を助手として推薦までしてくれたのであった(昭和15年11月21日付読売新聞)。住友から高給の秘書給与をもらっているが、上述の通り熊雄は四六時中公望につきっきりというわけではなく、週に数回報告するだけであった。政府要人とも会談したが、それでもなお十分時間があり、故に「公望をめぐる政局裏面」執筆は明らかにその時間の活用法の一つであった。

 だが、問題は公望である。遺言で書簡など一切の焼却を指示した公望にすれば、こういう筆記もまた好まなかったはずである。近衛も賛同したからというだけでは、公望は熊雄に了解を与えなかったであろう。監修者の里見によると、そもそもこれは、「一般に公開する意思は、毛頭」ないもので、「聖上ただおひとかたに御承知ねがひたくて書き誌した」(昭和55年跋[勝田『重臣たちの昭和史』下、417頁])ものであった。この点は、すでに昭和23年12月に、里見は、「原田君の意図としては日記を清書して陛下に差上げ、政治の内容を知っていただきたいという点にあったらしく、内容からみて一種の政治罪悪史のようなもの」(昭和23年12月28日付読売新聞)と語っていた所であった。

 これは、おそらく、熊雄ではなく、公望の意思であったろう。公望は、自分が関わる「政治罪悪史」などとても後世に残したいとは思わなかった。だからこそ、熊雄は「これは天皇にだけお読みいただくもの」として、躊躇する公望を納得させたに違いない。

 近衛泰子協力経緯 それでは、文麿が弟秀麿の妻泰子を熊雄の助手として熊雄に紹介したのはなぜであろうか。これは、まず第一に音楽家秀麿には生活力がなかったということが考えられる。文麿の妻千代子は毛利高範の長女であり、泰子の姉である。千代子が妹の泰子を義弟秀麿に紹介したのか、遊びに来た泰子に秀麿が惚れたのか、いずれが事実か定かではないが、文麿が妻の手前、家庭的ではない弟への罪滅ぼしに泰子に住友からの給与を媒介してやったともいえよう。

 実際、里見クにも同じようなことがいえる。彼は熊雄の妹信子の嫁いだ有島生馬の弟であるが、熊雄が「文士の無収入を憐れんで」(これは里見の謙遜であるが)月給100円、後に150円を里見に住友から支給させたのでもあった(里見 クの跋[勝田『重臣たちの昭和史』下、416頁])。熊雄は妹の嫁ぎ先の面倒をみただけであり、里見には「天皇にお見せするものだからしっかり校正してくれ」と頼んだのだろう。だが、実際には、熊雄は、文学趣味の公望への配慮から、小説家里見に文章を推敲監修をさせて、公望の賛同・協力をさらに確かなものにするという積極的理由があったのである。

 では、泰子には積極的理由があったのであろうか。あったのである。それは泰子に速記能力があったということであり、熊雄は、彼女が自分の口述を速記できるとして、文麿申し出を大いに喜んだのであった。泰子に速記能力があったのは、彼女の父は毛利式速記(ドイツ留学中に目にしたオーストリアのファウルマン式速記を参考にしたもの)を発明した九州元佐伯藩主の子爵毛利高範であり、泰子はこの父から「幼児より速記を教へられ」たからであった。熊雄は、「昭和四年春から老公の口述メモ、自己の見聞を合わせて泰子夫人に口述、記録作成」させたのであった。泰子は、「原田男が東京にある時は渋谷区千駄ヶ谷二の三八五の男爵邸に出向いて速記し、これを目白の自邸に持ち帰って下書きし」た。今度は、それを「男爵が坐漁荘に持参して老公の閲覧を乞ひ、添削のあったものを更に泰子夫人が清書して保存しているという正確さ」(昭和15年11月21日付読売新聞)でもって、原田日記が作成されていった。

 軍部右翼の動き 15年頃から、この原田日記は軍部らにも知られ狙われ始めた。同年秋、「右翼の一部が破棄せんとねらっているとの風聞も伝わったので、原田男が園公の許可を得て高松宮邸に保管方を依頼した」(23年1月16日付読売新聞)のであった。

 実際には、16年8月、熊雄が住友本社にトランク二個を持ち込んで、里見クと益田兼施(熊雄担当の住友社員)とで宮家に届けさせている(勝田『重臣たちの昭和史』下、325頁)。高松宮が日記保管を引き受けたのは、これが天皇だけに読ませる目的で書かれたと明かされたからであろう。だが、これは全部ではなかったようであり、「一部(軍縮会議に関するもの)は大磯の原田邸に残してあったため、昭和20年4月15日憲兵隊員に踏み込まれて押収された」(23年1月16日付読売新聞)らしい。


                         b 極東国際軍事裁判での証拠文書 
 元内大臣木戸幸一ら宮中グループは、戦時中の日本の軍国主義者東条英機などを戦後指導層から排除すること、天皇の戦争責任を免じ国体を護持することなどを企図して、極東国際軍事裁判の役割を評価し利用しようとした。そこで、彼らは、国際検察局に戦犯候補情報を提供したり、「木戸日記」を提出し、A級戦犯の選定に関与しようとした。

 だが、検察側は、「木戸日記」と同じくらいに、「原田日記」を重視しだした。戦争犯罪人を追及する検事側とすれば、「原田日記」では「自由主義的な日本が軍国主義者の台頭によって、次第に衰退してゆく経緯がはっきりと浮かびでていて」(23年1月16日付読売新聞)、これは軍国主義者の戦争推進・協力の実態を裏付ける一級資料と評価しだした。しかも、これは四百字詰原稿用紙数千枚(上記読売新聞では1万1400枚、勝田前掲書では監修後に2万枚)に上る厖大なものであり、詳細を極めていた。

 だが、だからこそ、本当に自由主義的な人であれば、それはその人を弁護する作用もしたのだが、軍部に対する宮中グループの中途半端な煮え切らない生の姿を浮かび上がらせるものともなった。実際、皮肉なことに、「原田日記」は、軍国主義者のみならず、宮中グループの親友木戸幸一追及の証拠として検事側に重視されだしたのであった。釈放後の昭和50年頃、木戸は勝田龍夫に、「(「原田日記」には)全く身に覚えのないことを、木戸は、木戸はと、いろいろ書いてあるね。・・・もう三十年経っているだろう。だからもう、いろんな推測が出ても、それを打ち消す手段もないやね」(勝田『重臣たちの昭和史』下、419頁)とこぼしていた。

  「原田日記」が極東国際軍事裁判で重要な役割を演じたことは判決文でもはっきりと触れられた。23年11月4日東京裁判判決の言い渡しが始まり、その第一日の判決文で、「木戸日記」は「1930年から1945年までの期間にわたって、天皇の助言者としての位置において、重要な人物との折衝などを当時に記録した」重要文書とする一方で、「西園寺、原田回顧録」(「原田日記」)は「最後の元老として特殊の地位を占めていた」西園寺の秘書「原田を通して、真相を十分にあからさまに知ることができた」「いま一つの重要な文書」としたのである((23年11月5日付読売新聞)。


                            c 木戸尋問
 木戸収監
 昭和20年12月6日、木戸幸一は近衛文麿・元農相酒井忠正伯爵・大河内正敏子爵・緒方竹虎・元駐独大使大島浩など8人とともに第4次戦犯に指名され、巣鴨プリズンに収監された。

 昭和21年2月25日、東京巣鴨プリズンで、首席検事ジョセフ・ベリー・キーナン(Joseph Berry Keenan)の下僚検事ベン・サケットは木戸幸一への尋問に着手した。キーナンは、満州事変前後から終戦までの時期を軍閥というギャングによる侵略戦争の推進過程と考えていて、木戸をこれを追認した人物と見ていた。

 「原田日記」引用尋問 21年5月3日極東国際軍事裁判が開廷した。6月4日キーナンが冒頭陳述し、 検事側の証拠調べが始まった。22年10月14日に木戸幸一が証人席に引き出された。

 22年10月21日、キーナン首席検事は、木戸幸一被告への反対尋問の第三日目に、「木戸被告がその口供書に平和への努力と軍国主義との闘争を強調しながら、好戦陰謀の一人と目していた板垣及び東条の起用に参画した事実」を鋭く指摘した。その際、キーナンは「原田日記」を引用して、「木戸証言の真実性」如何を追及しだしたのである。これに対して、木戸は、「自らの日記で考証を加えながら応酬」した。ここに、一切ぶれずに自由主義的態度に徹していた原田熊雄と軍部に時に黙認的・追従的態度をとった木戸幸一との違いが「原田日記」と「木戸日記」という「波乱の昭和秘史を綴るこの二大日記の対立」として法廷で浮き彫りにされて、それが「満廷に異常な深刻味を与えた」(22年10月22日付読売新聞)のであった。

 キーナンは、日華和平条件について、昭和12年12月2日の「原田日記」中で木戸幸一が語った言葉を引用した、「わが方から提示した和平条件を先方が拒絶したときは、日本の腹も見せてしまうばかりでなく、先方はこれを逆宣伝に使い、はては経済混乱の不安もあってなんら利益にならぬ。条件はもっと抽象的にしてあらゆる場合を含むようにせよと閣議で主張した参謀本部が和平を急ぐ態度がおかしい、悪くするとドイツにしてやられるのではないかとの不安がある」。「原田日記」によると、木戸は日華和平に反対していたというのである。

 これに対して、木戸は、「その日は原田男ほか二、三の人と食事をともにしたことを私の日記で確かめた、席上でそのようなことを話したかどうか分らぬ。原田日記をそのまま認める事はできぬ」と反駁した。

 今度は、キーナンは、13年1月12日の「原田日記」で、秩父宮から日華事変を解決しない理由を尋ねられて、木戸が「すでに七、八十万の中国兵を殺しておきながら、今さらに開かなかった手をにぎることができぬ。それに日本は戦勝国なのだ。戦勝国から和平条件を持ち出せば逆に中国側の宣伝にかかり、不利な結果をまねく」と発言しているところを取り上げた。これに対して、木戸は、「はっきりした記憶はない」と答えた。

 最後に、キーナンは、「蒋介石を相手にせずの近衛声明を木戸被告が閣僚の一人として支持した事、さらに第一次近衛内閣で板垣陸相、東条次官の起用に近衛首相に同意した事、日華事変処理要綱の決定事項に承諾を与えた事実」(22年10月22日付読売新聞)などを鋭く追及して、日華問題での木戸責任追及の尋問を終えた。

 「原田日記」引用戦法続行 翌日の10月22日もキーナン検事は「原田日記の引用戦法」で木戸を攻め立てた。キーナンは、「原田男爵、米内元大将、西園寺公らいわゆる宮廷派と目された人々の性格解剖を行い、これらの性格的弱者のみを集めて宮廷政治を専断しようとしていたのが木戸被告の真意ではないか」と、かなり穿った見方をしていた。

 午前中は、「原田日記」から「大蔵男が日本人の優越感を助成するため学校教育の改革を希望した際、木戸文相がこれに同意した」箇所を引用し、「日本を全体主義的国家に移行させる重要なポイントになった国家総動員法に文相として木戸被告の賛成した点」などに鋭い質問を浴びせかけた。

 午後は、「原田日記」から木戸被告の発言として、@「天皇は自由平和主義者だからこの気持ちを変えさせぬ限り、軍や右翼と非常な距離がでてくる」(昭和14年4月20日の項)、A「天皇は科学者でもあるため右翼に同情がない。とかく正義派で困る」(昭和13年9月22日の項)とある箇所を引用した。これによると、木戸は親右翼的な人物になろう。この点は、西園寺公望も、木戸には「性格的に右傾のところがある」(勝田『重臣たちの昭和史』下、106頁)とみていたように、実際に木戸には親右翼的なところがあったようだ。

 また、キーナンは、第一次近衛内閣の宇垣外相が興亜院問題で陸軍に反対して辞職した際、木戸は「宇垣には私心がある、やはり彼は野心家だ」(昭和13年9月20日の項)とあることを追及した。

 これに対して、木戸は、「そんなことは全然話したことはない。私は陛下が科学者であらせる御性格を最も尊敬し育成せんと努めた一人だ」と弁解して、原田批判を始めた、「原田とは終始親交を続けていたが、彼は学者型ではなく、活動的の人間であった。学生時代から組織的な能力に欠け、学校の成績もよくなかったが、政治的カンの強い男で、西園寺公は彼のこの特徴を利用した。だから、日記をつけることは原田の最も不得手とするところだ」(22年10月23日付読売新聞)として、原田日記など信用できぬと言い放った。

 しかし、10月23日も、キーナン検事は「原田日記」で木戸追及を続行した。キーナンは、「原田日記」中に、「天皇は(三国)同盟締結反対の方針であったのを木戸が説得したと西園寺公は疑いをもっている」(昭和15年10月20日)とあるのを引用した。だが、木戸はこれを「全面的に否定」した。この日にキーナンの木戸尋問は全て終了した。


                             d 原田日記信憑性 
 
年が改まると、木戸や木戸弁護人はキーナン追及の矛先をそらすために、熊雄批判を強め始めた。彼らは、熊雄は精神耗弱者であり、尋常ではなかったとして、熊雄には適正な判断能力がなかったなどと主張しだした。さらに、「原田日記」は作成手続き上で証拠信憑性がないことを指摘しはじめた。

 主治医証人喚問 23年1月15日、キーナン検事らは、木戸が熊雄を精神耗弱者とし、「時折心気呆然」としたりしていたと病人扱いしたり、東条が熊雄を「高等情報ブローカー」と非難したことに対して、これを反駁する証人として原田熊雄主治医村山富治(20年間熊雄の主治医)、近衛泰子夫人を法廷に喚問した。

 検事アーサー・S・コミンズ・カー(Arthur S. Comyns Carr。イギリス人)は村山を尋問すると、村山証人は「原田男の精神状態に異常のなかったことを証言」(23年1月16日付読売新聞)した。

 これに対して、木戸側弁護人ウィリアム・ローガン(アメリカ人)は、その村山に原田の精神状態、病歴などを尋問した。だが、村山は、「原田は昭和十八年八月脳血栓にかかったが、それ以前は年に二三回他の病気を手当をしただけだ」とかわした。その日は午後もローガン尋問が執拗に続き、熊雄健康如何に関する問答が繰り返された。村山証人は、「原田男は、精神的にも記憶力にもなんら異常なし」と強調して、退廷した。検事側の作戦はほぼ奏功したようだ。

 速記者証人喚問 今度は、近衛泰子が出廷して、「原田男は精神的には十分な能力を持っていた」と証言した。彼女とすれば、ただ口述筆記し清書しただけで、国際法廷に証人喚問されるとは夢にも思わなかったろうが、元華族令嬢らしく落ち着いて冷静に答えた。

 最後に、彼女は、「原田男が、西園寺公に見せて加筆修正してもらった本物のほかに、写しがあり、その写しに里見さんが手を入れ、私がこれらにそれをお清書しておきました」と証言した。すると、「原田日記」には、「原本」と「里見氏の監修を経たもの」との二種あることになる。木戸側の弁護人ローガン、ブルックス(アルフレッド・W・ブルックス。アメリカ人)両人は「原文の一部を提出せよ」と要求した。これに対して、カー検事は、「正確な写真複写があるから、その必要なし」と反駁したところで、この日は定刻閉廷となった(23年1月16日付読売新聞)。

 翌16日午前、法廷は、前日に引き続き近衛泰子の証人喚問で始められた。ローガン、ブルックス両弁護人は、泰子を証人台に座らせたまま、「『原田日記』が原田男の口述、西園寺公の加筆、近衛泰子さんの清書、さらに里見ク氏の監修など幾人もの手を経ている点をとりあげ、証拠としての純粋性を問題」(23年1月17日付読売新聞)にしだした。木戸弁護人は、何とかして「原田日記」の呪縛から脱しようとしていた。だが、ウィリアム・ウェッブ裁判長(オーストラリア人)は、「本文書は重要なものと認められるから、疑義は徹底的に究明されたい」と発言した。

 検事側は「原田日記」原本提出を約束して、ひとまず近衛証人を退廷させた。裁判長が作成過程の合理性を認めたので、検事側は原本提出を約束したのだが、今度はローガン弁護人はこの原本提出却下を申請してきた。だが、午後の法廷でウェッブ裁判長はこれを却下した事を受けて、今度はカー検事が「原田日記」の抜書提出に着手した。


                              e A級戦犯立件 
 キーナン検事の「原田日記」援用 23年1月5日、キーナン検事は、「昭和15年7月19日荻外荘で行われた近衛、松岡、吉田(善五)、東条四相会談内容を記した」原田日記抜書を東条に示して、この確認を求めた。

 東条「私は原田を信用しない。高等ブローカーだと思っている」
 キーナン「原田日記には四相会談及び連絡会議での決定経過について述べた末尾で『統帥部と政府との決定事項は特定元老かぎりで一覧されたし』とある。これでも貴殿は信用せぬか」
 東条「自説は曲げぬ」
 キーナン「この文章は特に重要な内容をもつので、証拠として提出する」

 こういうと。キーナンは「原田日記」中から「日華事変事変処理策として重慶の屈服ををはかる。」、「対米方針としては厳然たる態度をとり、場合によっては自然的悪化も辞せず」などの強硬な文句を引用した。

 キーナン「十五年夏ころから、かかる強硬なる対外国策が決定していた」
 東条「原田は閣議と連絡会議の決定事項をゴッチャにしている。すべてが彼の主観によって作り挙げられているので、高等情報ブローカーと言われている所以である。」

 ここで正午となって、法廷は休廷となった。午後は、「木戸日記」を使って仏印進駐が尋問された。

 キーナン「木戸日記から天皇が仏印進駐のことを火事ドロと述べた」
 東条「木戸は変な言葉を使っている。火事ドロなどをしたことない。だいたい天皇が火事ドロなどという下等な言葉を使うはずがない」

 東条は怒気をこめて木戸を非難した。東条らにとっては、「原田日記」も「木戸日記」も自分達の戦争遂行を明るみに出す不都合なものであったろう。

 この日、キーナンは、さらに「原田日記」の昭和6年7月16日(荒木が侍従武官長になることの危険性)、8月27日(箱根で原田が聞いた江木鉄相の陸軍専断批判)、9月14日(小磯軍務局長らが大蔵省の陸軍省改革を頓挫させたこと)、9月23日(関東軍司令官が建川持参の陸軍大臣親展書を見ないで事をおこしたこと)、9月28日(南陸軍大臣が満州への朝鮮軍出兵を発議したこと)、10月2日(南陸軍大臣の間島出兵論)、11月5日(南陸相が閣議で国際連盟脱退論を説いたこと)などの抜書を提出した(23年1月6日付読売新聞)。

 カー検事の「原田日記」援用 1月中旬からは、カー検事が「木戸日記」を活用して戦犯追及を積極的に行った。

 1月16日、カーは、「原田日記」の昭和15年10月23日付の記述をあげて、「真相を将来に備えるため昭和四年以来この記録を続けた旨の原田日記出現の由来」を強調して、「満州事変前後のファッショ化傾向を見せた陸軍部内の動きに対し荒木、南、平沼、小磯各被告が、さきの審理で否認した事柄を反駁」した。この間、弁護人は、「原田日記」が読み上げられる都度、「激しい異議申し立て」を続けたが、裁判長はこれをことごとく却下した。

 結局、検事側は、この日用意した「原田日記」抜書105通のうち13通を法廷に提出したのであった(23年1月17日付読売新聞)。

 1月19日も、カー検事は終日、「原田日記」の抜書を証拠として提出し続けた。午前中は15通の抜書を提出したが、これらは「満州事変の進展に伴って発生した国際連盟脱退論およびその後に続く外交問題、言論圧迫などの事件」を扱うものであった。これによって、「一 白鳥被告(当時外務省情報部長)は国際連盟脱退を強調し、荒木を総理とする強力内閣で国際問題を強行せよと主張したこと」、「一 荒木被告(当時陸相)は国際連盟から孤立化した日本で世界を相手に戦争するなることを希望していたこと」(23年1月20日付読売新聞)など、先の審理で彼らが否定したことを原田日記で反駁したのであった。

 1月20日もカー検事は「原田日記」抜書の提出を続行した。まず、「原田日記」の昭和13年1月8日の記事で「外相広田被告が日華事変長期戦を力説した事を例証」した。

 ついで、カーは、「原田日記」の昭和13年7月21日の記事で「対ソ実力行使問題で板垣陸相や陛下からお叱りを受けた事情」を引用して、「さきの板垣証言に反駁」した。午前はこれで終了して、休廷となった。

 午後、カーは「原田日記」の昭和14年4月18日の項を引用して、三国同盟問題に切り込んだ。

  「内大臣秘書官長に陸相(板垣)参内の事情を聞いてみたところ、陛下には前から白鳥、大島大使が中央の訓令を反駁し、権限外の参戦の意見表明(独との交戦国に参戦するの意)をしたことを面白くないと思し召していたので、その際陛下には『出先の両大使が勝手に参戦の意思を表示したことは大元帥の権限を犯したものではないか。しかもかくの如き場合にはそれをするが如き態度をとるのは甚だ面白くない』という意味のお話があった。恐懼した陸相は退出後、武官長室で『一体だれがすべてを申し上げたのか』と憤激していた」

 カーは、これで「さきに板垣被告が証人台から『原熊の言葉など・・・』と一蹴した否定証言に反駁」したのであった。

 さらに、カーは「原田日記」の同年4月20日の記述(「自由主義者であり平和愛好者であられる陛下には、この際お考えを多少変えていただき、将来陸軍が右翼とのへだたりが出来ぬようにせねばならぬ」)を引用して、木戸の枢軸同盟論の核心を鋭く抉り出した。

 カー検事の「原田日記」引用はとどまる所知らず、延々と続いた。彼は、「原田日記」の同年4月22日の記述(「木戸の話によると、総理(平沼」)は今の条件(三国同盟締結条件)で日本はどこまでも押してゆく覚悟だが、それが駄目なら内閣は辞めるつもりであるから、内閣のあとのことも考えておいていただきたいといってきたという。結局、陛下の頭を変えることは辞めにして、はっきり甲か乙かという所にきていた。これは見かたによれば、これ以上お上のお許しが出ぬ限りは、このままで押し通してゆくが、先方がその条件に応ぜぬ場合は政府は辞める、それはお許しが出ないから政府が辞めても致し方がないという半分脅迫といっては恐れ多いが、一年生の捨て台詞みたいなことを内大臣まで通じたともみられた」)を引用して、「木戸被告らの陛下に対する侮辱的態度を明らかにするものである」と、断罪した。

 この後、木戸弁護人ローガンは、カー検事、ウェッブ裁判長らとの間で、「『原田日記』の翻訳問題について一時間近い論争」を展開した。

 最後に、カーは、「原田日記」の同年7月14日の記述(「板垣陸相参内の節、天津問題についての御下問に板垣は陸軍は英租界が持っている四千五百万元の引渡しを要求するのは相場を維持するためでございますと申し上げた。陛下は『それだけで良いのか』と重ねて御下問になったら、『とてもそれではダメなんでございます』と奉答したので、陛下はお驚きになって、『どうも頭が悪いじゃないか』といって、たしなめられたという話を内大臣は語った」)で、さきの板垣証言を覆した。

 こうして、この日、カー検事は「原田日記」の抜書計22通を提出して、定刻に閉廷した(23年1月21日付読売新聞)。

 1月21日、この日がカーによる「原田日記」抜書提出の最後の日である。

 まず、カーは、「原田日記」で、「板垣被告が三国軍事同盟締結には有田外相も賛成していると虚偽の奏上をして陛下から叱られたこと」、「近衛総理に同盟締結促進をあせった事実」を例証し、先の法廷での板垣証言を反駁した。

 次に、カーは、「原田日記」の14年8月5日(荒木文相の話)で小磯拓相の「権謀術数」を暴き出し、15年8月15日記述(「第三次近衛内閣に際して、近衛、松岡、吉田、東条四相の動議によって作成された時局処理対策要綱が詳述」)で「さきに東条被告が『高等情報ブローカーの日記は正確ではない』と一蹴した東条被告に反駁を加えた」のであった。

 さらに、カーは、「原田日記」同年9月1日記述(「近衛公の新体制運動の実態にふれ、軍務局長武藤被告らが政党をうって一丸としいわゆる親軍党を結成して陸軍の意のままにせんとした陸軍の政治的陰謀を暴露」)で「これに対する否定的な武藤発言
を烈しく反駁」した。

 最後に、「原田日記」同年10月23日の記述(「木戸内府が政府当局者の三国同盟締結に関する奏請を西園寺公に秘密にしていた事」)を引用した。以上で、カー検事は4日間の「原田日記」抜書提出を打ち切って、正午に休廷となった(23年1月22日付読売新聞)。

 こうして、カーは、冷静緻密にして鋭い切り口で「原田日記」を分析して、キーナン同様に精力的に「原田日記」を活用したのであった。

 ローガン弁護人の「原田日記」反駁 2月3日、ローガン弁護人は、検事側が木戸被告訴追に関して「原田日記」を証拠とすることの再反駁を試みた。ローガンは、別の原田主治医佐々廉平が「脳血栓による失語症の疑いがあった」という証言をしたことをもって、「原田男の記憶が正確だったことを証言した原田男主治医の村山富治氏や近衛泰子さんの陳述を反駁」した。さらに、ローガンは、「原田日記」の昭和14年12月27日記事抜書をあげて、「木戸内大臣が日華和平を望んでいたことを原田男も認めていた」(23年2月3日付読売新聞)と、今度は「原田日記」を弁護材料につかった。

 弁護側は再反駁資料を準備するために、法廷は一時休廷していたが、2月9日定刻に東京裁判は再開した。ブルックス弁護人は、「原田日記」の14年4月18日の項が小磯が三国同盟に反対であったことを示しているとして、原田日記を弁護材料に援用したのであった。

 4月2日、ローガン弁護人は木戸被告の最終弁論を行った。ローガンは、「木戸は閣僚としては文相、厚相などの脇役を勤めたに過ぎず、彼に平和の罪をもって訴追するは明らかに不当である。木戸日記にはその折の侵略的事態に彼が強く反対していたことを示している」と、反駁した。さらに、彼は、「木戸日記と原田日記の特異性を例証し、内大臣の輔弼は国務大臣や統帥部のそれと異なって聖徳涵養の輔弼に任じていたに過ぎぬ」と主張した。最後に、「東条を首相に奏請したのは平和を念願した結果である」と木戸を弁護して、延々と270頁余の弁論書を朗読した(23年4月3日付読売新聞)。

 4月5日、ローガンは木戸弁論の後半に入り、「木戸被告が終始平和を念願し、東条首相の奏請も・・・すべて平和再来を促さんとしたもの」と強調した。そして、「原田日記」に言及して、「原田日記にある如く木戸が天皇を軽侮していたとするならば、何故に原田は西園寺公ととともに木戸を天皇側近の輔弼たる内府に就任させたのか不思議だ」(23年4月6日付読売新聞)と主張した。


 こうして「原田日記」が多くは検察陣、時に弁護陣に利用されて、23年4月16日審理は終わった。昭和23年11月12日に判決言い渡しが終了し、東条ら7人は絞首刑、木戸ら16人は終身禁固刑に処せられた。



 京大三羽烏と称せられた近衛文麿、木戸幸一、原田熊雄の親友三人は戦後、前二者は自殺、終身禁固刑となり、後者の原田熊雄は最後まで公望同様に反軍国主義的・自由主義思想を堅持しつつ病死した。仮に熊雄が存命であったとしても、吉田内閣の閣僚に乞われてなりこそすれ、極東軍事裁判に訴追されることもなければ、親友木戸訴追に関しては一切黙秘したであろう。そして、原田熊雄は、「原田日記」が天皇だけに読まれるために書かれたという本来の趣旨に大きく逸脱して極東軍事裁判の証拠に援用されることにも強く反対したはずであり、自己弁護のために親友を売るなどということは決してしなかったであろう。それが江戸っ子熊公の真骨頂ともいうべきものであった。ただし、「原田日記」は宮内省(22年5月3日宮内府、24年6月1日宮内庁)が所管しており、天皇が出せと命じれば、熊雄は出さざるをえなかったであろう。その時、熊雄は、「勅命」と「友情」との板挟みにあって、窮境に追い込まれたことであろう。


 因みに、「原田日記」は極東国際軍事裁判で公にされてしまったこともあって、公望、熊雄の遺志に反して、昭和期第一級資料として、昭和25年6月に、熊雄と親交のあった岩波茂雄(勝田『重臣たちの昭和史』下、338頁など)の経営する岩波書店より刊行が開始されることになってしまった。さぞや、熊公は公望との約束を守れずに、公望には相すまぬ仕儀になったと思っていることだろう。

 
(以上、国会図書館憲政資料室所蔵『原田熊雄関係文書』、勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上下、文藝春秋、1981年;『西園寺公と政局』第一巻ー第八巻、岩波書店、1951−52年などより作成。人物写真は『重臣たちの昭和史』に依拠)

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